これからは大阪で(このブログの更新の終わり) [日々]
3月29日、東京での最後の勤務を終え、壮行会をしてもらって土曜日に帰阪。
これで本当に東京での仕事も生活も終止符を打った。
強い、強い、終止感。終結感。
悲壮感や悲しさはないけれども若干の空虚感と若干の寂しさはある。
ひとつの舞台が、ひとつのストーリーが終わった、幕を閉じた、という感じ。
ある意味では華やかでバブリーな日々の終わり、という気もするが、本来の
自分の姿に戻ってゆくという感もある。
こちらの更新もずいぶんと滞ってきた。本家の更新はもっと滞っている。
ちょうどよい節目だと思うので、これを期にここの更新は終わりにして
本家「風の歌が聞こえますか」に統合したいと思う。
もしもここを読んでくださっている方がおられましたら、すみませんが
本家の方でよろしくお願いいたします。
これで本当に東京での仕事も生活も終止符を打った。
強い、強い、終止感。終結感。
悲壮感や悲しさはないけれども若干の空虚感と若干の寂しさはある。
ひとつの舞台が、ひとつのストーリーが終わった、幕を閉じた、という感じ。
ある意味では華やかでバブリーな日々の終わり、という気もするが、本来の
自分の姿に戻ってゆくという感もある。
こちらの更新もずいぶんと滞ってきた。本家の更新はもっと滞っている。
ちょうどよい節目だと思うので、これを期にここの更新は終わりにして
本家「風の歌が聞こえますか」に統合したいと思う。
もしもここを読んでくださっている方がおられましたら、すみませんが
本家の方でよろしくお願いいたします。
引っ越しが終わった [日々]
この前の土日で引っ越しが完了した。
もう僕は東京には家がない。家はないが月末までは東京勤務なので(今週は
大阪だが)日曜からホテル住まいで東京になる。3月最終週に東京の事務所
の机の中身も全部大阪に送ることになる。
6年間の東京生活はしんどかった部分もあるが、楽しくもあった。
やはり東京は日本の中心だと痛感した。それに比べれば大阪なんてしょせん
地方都市のひとつに過ぎない。
大阪に帰ってきて、夜の御堂筋線でワンカップを飲みながらスポーツ新聞を
読んでいるオヤジを見て、ああ大阪だな、と思う(東京の丸ノ内線や銀座線
でそんな人をみたことはないので)
ここが良くも悪くも僕のホームタウンなのだ。
もう僕は東京には家がない。家はないが月末までは東京勤務なので(今週は
大阪だが)日曜からホテル住まいで東京になる。3月最終週に東京の事務所
の机の中身も全部大阪に送ることになる。
6年間の東京生活はしんどかった部分もあるが、楽しくもあった。
やはり東京は日本の中心だと痛感した。それに比べれば大阪なんてしょせん
地方都市のひとつに過ぎない。
大阪に帰ってきて、夜の御堂筋線でワンカップを飲みながらスポーツ新聞を
読んでいるオヤジを見て、ああ大阪だな、と思う(東京の丸ノ内線や銀座線
でそんな人をみたことはないので)
ここが良くも悪くも僕のホームタウンなのだ。
ゴミは排泄物と同じ [日々]
この三連休は前半は大阪で、後半は東京でひたすら引越し準備。
不要な本・CD・DVDのをブックオフに出し(合計1500冊以上を出した)
不燃ごみ、可燃ごみをまとめ、粗大ごみを引き取ってもらう手配をし
引越し業者を呼んで見積りを取り(大手業者でも倍近い差があって
驚いた)、、とにかくやってもやってもやらなくてはならないことが
出てくる。
とくにゴミまとめ・ゴミ出しをしていて思った。
「こんなにゴミを出すぐらいなら、もうモノを買わない」と。
しかし、一方ではこうも思った。
人間は食べないと生きていけないが、食べるとすべてを消化することは
無理だから排泄する。生きることは食べることと同義であるが同時に
排泄することとも同義である。同様にモノを買うことも必要性に迫ら
れてという以上に買いたい気持ちを満足させるため(つまり人生を精神的
に満足させるため)であることが多いことを考えれば、何かを買ってしまう
のは生きていることと同義とも言える。つまりその時は必要と思って・
どうしても欲しいと思って・買わなくてはと思って買ったものがいずれ
廃棄物になったとすれば、それは人間の排泄物と同じということではないか。
「こんなゴミ見たくないからもうモノを買わない」と言うのは「排泄物を
見るのが嫌だからもう食べない」と言ってるようなものではないか?
まぁ人はモノを買わなくても死なないので無茶な比較であるとは思うが、
簡単に断捨離なんかできるものではない理由はここにあると思う。
不要な本・CD・DVDのをブックオフに出し(合計1500冊以上を出した)
不燃ごみ、可燃ごみをまとめ、粗大ごみを引き取ってもらう手配をし
引越し業者を呼んで見積りを取り(大手業者でも倍近い差があって
驚いた)、、とにかくやってもやってもやらなくてはならないことが
出てくる。
とくにゴミまとめ・ゴミ出しをしていて思った。
「こんなにゴミを出すぐらいなら、もうモノを買わない」と。
しかし、一方ではこうも思った。
人間は食べないと生きていけないが、食べるとすべてを消化することは
無理だから排泄する。生きることは食べることと同義であるが同時に
排泄することとも同義である。同様にモノを買うことも必要性に迫ら
れてという以上に買いたい気持ちを満足させるため(つまり人生を精神的
に満足させるため)であることが多いことを考えれば、何かを買ってしまう
のは生きていることと同義とも言える。つまりその時は必要と思って・
どうしても欲しいと思って・買わなくてはと思って買ったものがいずれ
廃棄物になったとすれば、それは人間の排泄物と同じということではないか。
「こんなゴミ見たくないからもうモノを買わない」と言うのは「排泄物を
見るのが嫌だからもう食べない」と言ってるようなものではないか?
まぁ人はモノを買わなくても死なないので無茶な比較であるとは思うが、
簡単に断捨離なんかできるものではない理由はここにあると思う。
排泄物の山 [日々]
東京に戻る新幹線の車中である。
この週末は大阪の不用品処理に時間を費やしていた。
今回、東京から戻るにあたり、過去からの溜まっていた不用品、僕が不在の間に
増えた家具や不用品を一挙に処分することにしたのだ。
それはもう出るわ出るわ、凄まじい量の不用品の山。
もう見たくない!と言いたくなる量だ。
大阪の本もおよそ1000冊、処分に出した。
それでも全然荷物が減ったように思えないのが不思議だ。
不用品やゴミは生きている証だと思う。
つまり排泄物とおなじだ。生きることは排泄することと同義だなのだ。
人間は排泄物を見たくないからといって食べるのをやめられるわけではない。
色々買ってしまうこと、手に入れて保持することは食べることと同義。
ならば、しばらくぼんやりしていると排泄物が山になるのもやむを得ない。
それでも、不用品の山を見ると気が滅入る。
仕方ない事ではあるのだが。
この週末は大阪の不用品処理に時間を費やしていた。
今回、東京から戻るにあたり、過去からの溜まっていた不用品、僕が不在の間に
増えた家具や不用品を一挙に処分することにしたのだ。
それはもう出るわ出るわ、凄まじい量の不用品の山。
もう見たくない!と言いたくなる量だ。
大阪の本もおよそ1000冊、処分に出した。
それでも全然荷物が減ったように思えないのが不思議だ。
不用品やゴミは生きている証だと思う。
つまり排泄物とおなじだ。生きることは排泄することと同義だなのだ。
人間は排泄物を見たくないからといって食べるのをやめられるわけではない。
色々買ってしまうこと、手に入れて保持することは食べることと同義。
ならば、しばらくぼんやりしていると排泄物が山になるのもやむを得ない。
それでも、不用品の山を見ると気が滅入る。
仕方ない事ではあるのだが。
不意打ちを食らった [日々]
大阪に帰任することがほぼ決まった。
引越しは3月初旬を予定している。
帰任は役員退任とタイミングを一にした来年4月ないし6月と考えていたの
だが、会社の事情の変化により急遽東京を離れることに。
バタバタする日々が急に始まった。
粗大ごみの処理、引越し手配、などなど。
6年間の東京生活で本は増殖してしまったが、昨日一気に古本業者に引き取って
もらった。約1,000冊弱だがまだ処分する本がある。この状態ではもう紙の本は
読めないからもういいやと思い切った。
不思議なものでもうちょっと東京にいたかった、という思いもある。
なんとも複雑な気分だ。
引越しは3月初旬を予定している。
帰任は役員退任とタイミングを一にした来年4月ないし6月と考えていたの
だが、会社の事情の変化により急遽東京を離れることに。
バタバタする日々が急に始まった。
粗大ごみの処理、引越し手配、などなど。
6年間の東京生活で本は増殖してしまったが、昨日一気に古本業者に引き取って
もらった。約1,000冊弱だがまだ処分する本がある。この状態ではもう紙の本は
読めないからもういいやと思い切った。
不思議なものでもうちょっと東京にいたかった、という思いもある。
なんとも複雑な気分だ。
残念ながらここまでだ。 [日々]
年が明けた。もう14日なのに今更という感じだけれど新年だ。
父はまだ生きながらえていてチューブをつけたままだが立ち上がって数メートル
は歩けるようになった。恐るべき気力・生命力であると思う。
僕にはそこまでの気力や生命力はない。
最近、目の疲れがひどく本が読めない。
社員から借りた文庫本2冊の小説、今までなら2日ぐらいで読めたのに、今は
数ページ読むともうダメだ。ひとつには目だけでなく気力が追いつかないこと
もあると思うが。体調のほうはだましだましで日によって耳の違和感や顔の
ほてりがあったりなかったりする。ひどい時は抗不安薬を飲んで我慢している
が大体は薬を飲まずに過ごしている。
このまま淡々を生きようと思う。
パワーダウンした状態だけれど無理にパワーアップはもうできない。
残念ながら僕はここまでだ。
父はまだ生きながらえていてチューブをつけたままだが立ち上がって数メートル
は歩けるようになった。恐るべき気力・生命力であると思う。
僕にはそこまでの気力や生命力はない。
最近、目の疲れがひどく本が読めない。
社員から借りた文庫本2冊の小説、今までなら2日ぐらいで読めたのに、今は
数ページ読むともうダメだ。ひとつには目だけでなく気力が追いつかないこと
もあると思うが。体調のほうはだましだましで日によって耳の違和感や顔の
ほてりがあったりなかったりする。ひどい時は抗不安薬を飲んで我慢している
が大体は薬を飲まずに過ごしている。
このまま淡々を生きようと思う。
パワーダウンした状態だけれど無理にパワーアップはもうできない。
残念ながら僕はここまでだ。
闘病を人生のメインテーマにしない、ということ。 [日々]
ふと気がつくと12月ももう半ばを過ぎている。
父は実家に帰って少し回復したようで元気が出つつある(が、チューブにつながった
ままだ)。僕のほうは多少の自律神経の不調はあるものの、まぁなんとか東京と大阪
を行き来しながらやっている。
日経新聞に脚本家の北川悦吏子さんがコラムを書いていた。
北川さんは何度も何度も難病に襲われいまも闘病を続けながら仕事をしている人だが、
言葉の中になるほど、と思える一節があったのでここに記しておきたい。
「私なりに、要点は押さえる。そうしたら、あとは運を天に任せる。医者の腕に任せる。
多くの時間と気持ちを、身体のことに取られない。」
「だって、しかたがない。思うようにならないのが、自分の身体、だ。身体と向き合って
戦って、人生終わったらたまらない。」
「闘病を人生のメインテーマにしない。かたわらに置く、というか。」
「(難病を)忘れるほど、夢中になれるもの(を見つけること)」
なるほど、と思った。病気について考え、思いつめ、戦うよりも病気を忘れられる
ほど夢中になれるものを見つけるほうがずっといい。
父は実家に帰って少し回復したようで元気が出つつある(が、チューブにつながった
ままだ)。僕のほうは多少の自律神経の不調はあるものの、まぁなんとか東京と大阪
を行き来しながらやっている。
日経新聞に脚本家の北川悦吏子さんがコラムを書いていた。
北川さんは何度も何度も難病に襲われいまも闘病を続けながら仕事をしている人だが、
言葉の中になるほど、と思える一節があったのでここに記しておきたい。
「私なりに、要点は押さえる。そうしたら、あとは運を天に任せる。医者の腕に任せる。
多くの時間と気持ちを、身体のことに取られない。」
「だって、しかたがない。思うようにならないのが、自分の身体、だ。身体と向き合って
戦って、人生終わったらたまらない。」
「闘病を人生のメインテーマにしない。かたわらに置く、というか。」
「(難病を)忘れるほど、夢中になれるもの(を見つけること)」
なるほど、と思った。病気について考え、思いつめ、戦うよりも病気を忘れられる
ほど夢中になれるものを見つけるほうがずっといい。
フェメール展を見に行った。 [日々]
父は大阪の自宅に戻り、寝たきりで介護を受けている。
しかし自分の家に帰れたのが本当に嬉しいようで目に輝きが戻っていた。
チューブにつながったままとはいえ、生きる意欲はまだあるのだ。
僕もストレスを感じ続けているだけでもいけないので、思い立って上野の
フェルメール展を見に行った。日時指定ということで普通の展覧会よりは
マシだがそれでも結構な混雑だった。未見で今回見れたのは「赤い帽子の
娘」で他は見たことのある絵ばかりだったが、それでも見惚れてしまう。
ホーホなど他の同時代の画家の絵も展示されていたが同じような画題
なのにここまで違うのか、という引き立て役に感じてしまった。
これで僕が見たフェルメールの絵は23枚になった。
しかし自分の家に帰れたのが本当に嬉しいようで目に輝きが戻っていた。
チューブにつながったままとはいえ、生きる意欲はまだあるのだ。
僕もストレスを感じ続けているだけでもいけないので、思い立って上野の
フェルメール展を見に行った。日時指定ということで普通の展覧会よりは
マシだがそれでも結構な混雑だった。未見で今回見れたのは「赤い帽子の
娘」で他は見たことのある絵ばかりだったが、それでも見惚れてしまう。
ホーホなど他の同時代の画家の絵も展示されていたが同じような画題
なのにここまで違うのか、という引き立て役に感じてしまった。
これで僕が見たフェルメールの絵は23枚になった。
また大阪に来ている。 [日々]
このところ毎週大阪に来ている。
今日、父は退院し自宅に戻った。チューブにつながったままの帰宅だ。
明日、経営会議が終わったら実家に見舞いに行くが、正直なところ弱ってゆく
肉親を見るのはストレスフルだ。しかし、しっかり見送ることが自分の役割
だとも思う。
ここにもあまり書くことがない。
書きたい、という意欲が湧いてこない。
本当にしんどい時はそうなのかもしれない。
黙ってじっとしているのがいいのかもしれない。
今日、父は退院し自宅に戻った。チューブにつながったままの帰宅だ。
明日、経営会議が終わったら実家に見舞いに行くが、正直なところ弱ってゆく
肉親を見るのはストレスフルだ。しかし、しっかり見送ることが自分の役割
だとも思う。
ここにもあまり書くことがない。
書きたい、という意欲が湧いてこない。
本当にしんどい時はそうなのかもしれない。
黙ってじっとしているのがいいのかもしれない。
大阪にて [日々]
11月なのに春のような暖かさ。
今週も大阪に来ている。無理やり仕事を作ってきたようなものだ。
医者にはっきりと父は「終末期」であると宣告されており、病気を
直すというフェーズではなく「どこで最期を迎えさせてあげるか」
というフェーズであると言われた。
そういうことなら、ということで来週、退院して自宅に帰ることに
なった。本人はひたすら家に帰りたがっているのだ。
退院してもどれほど命の火が続くかはわからない。
いつ終わってもおかしくない、というのが医師の見立てだ。
人生には「どうしようもないこと」がいくつもある。
自分もいずれはその「どうしようもないこと」に直面すること
になるのだろうが。。。
今週も大阪に来ている。無理やり仕事を作ってきたようなものだ。
医者にはっきりと父は「終末期」であると宣告されており、病気を
直すというフェーズではなく「どこで最期を迎えさせてあげるか」
というフェーズであると言われた。
そういうことなら、ということで来週、退院して自宅に帰ることに
なった。本人はひたすら家に帰りたがっているのだ。
退院してもどれほど命の火が続くかはわからない。
いつ終わってもおかしくない、というのが医師の見立てだ。
人生には「どうしようもないこと」がいくつもある。
自分もいずれはその「どうしようもないこと」に直面すること
になるのだろうが。。。